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― もうひとつのピアノ ―

領家幸が、その不思議なピアノと出会ったのは1976年、23歳の時でした。コンクールを受けにいったフライブルグでのことです。
それは、”古い時代の奏法”で弾くピアノだったのです。

古い建物の練習室に、使い古した1台のスタインウェイがありました。
その鍵盤の感触は、ひどく変わったものでした。
触った瞬間にサッと底まで下りる。驚くほどの軽さ。指が鍵盤に触れるか触れないかで、もう鍵盤の底に着いていました。強弱の調節が全く出来ません。
それまで慣れ親しんできたピアノとはまるで違う楽器でした。

 領家幸は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)から亡命したばかりのロシア人ピアニスト、V.マルグリス教授がそのピアノで演奏するのを聞きました。
バッハの作品が、最弱音から最強音までの幅が非常に大きく、何よりもピアノがそれまで聞いたことがないような響きであるのに、衝撃を受けました。
それが、領家幸と「もうひとつのピアノ」の運命的な出会いでした。

領家幸はフライブルグ大学のマルグリス教授のクラスに移籍して、「ピアノの音は皆が普通に考えているような減衰振動(音が出てから段々弱くなること)ではない」と教えられ、クレッセンド(段々大きくなること)もでき、「響きを持ち上げる」ことを学びました。
教授の演奏では、音が次の音まで完全に“生きて”いて、隙間なく繋がっていました。さらに、ピアノ音楽が室内楽やオーケストラと同じポリフォニー(多声音楽)であり、全部の声部を弾き分けられることも知りました。「ピアノ」という楽器の概念が180度変わりました。

 同じフライブルグ音楽大学のローザ・サバティア教授のところでさらに繊細で透明な奏法を初めて聞くことになります。
常に「歌うように弾け」と言うサバテア教授の演奏は、ピアノは人間の声や管・弦楽器と同じように“息遣い”ができ、人が歌うように奏でられていました
。速い旋律も完全に“歌われて”いました。
ポリフォニーのそれぞれの声部(旋律)が自由に動き、知っていた曲がまったく異なる内容で聞こえてきました。
サバテア教授が弾くと、音階やアルペジオ(分散和音)がオーロラのごとく立ち上がり、ピアノの上に“響きの雲”とでもいうような響きの立体構造を形づくるのを体感しました

「もうひとつのピアノ」について理解するには、ピアノそのものの歴史を知ることが必要です。
ピアノという楽器は1698年に初めて製作されました。
そのとき、ピアノの構想の元になった二つの楽器がありました。チェンバロとクラヴィコードです。

チェンバロは、弦を引っ掻いて音を出す楽器。
鍵盤を押すとキール(爪)が弦を引っ掻き、特有の風情ある響き、豊かな音が出てきます。
ただ、この音はだんだんと弱まっていく類のものでした。

クラヴィコードは鍵盤を押して底に着くと金属片が弦を押し上げるようになっています。
弦を押し上げている限り、音は“生きて”伸びますが、この音はか細く、大きい広間での演奏には向いていません。

 この二つの楽器から生まれたピアノは、
発展の途上において、二つのまったく異なるメカニック(音の出る仕組みや構造)の楽器に分かれていきます。
鍵盤の抵抗の重く、重厚な音を響かせるイギリス式メカニックと、
抵抗がなく軽やかに動く鍵盤で旋律を滑らかに歌えるウィーン式メカニックです。
その後、イギリス式メカニックの楽器は技術革新によって「連打が出来ない(次の音がすぐに続けては出せない)」という短所を改善し、
ウィーン式のメカニックの楽器を19世紀に徐々に市場から追い落としていきます。
近代から現代にかけてコンサート会場が大きくなるにつれ、音の大きさで劣るウィーン式は劣勢をしいられ、ついに19世紀半ばから20世紀にかけてイギリス式が市場を席巻するに至りました。

 現在の我々はその勝ち残った楽器のイギリス式メカニックのピアノしか知りませんが
バッハもモーツァルトも“音楽的だ”といってクラヴィコードを好んでいたと思われる証言がたくさんあります。
 シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、ショパンといった作曲家はウィーン式の楽器を弾いていました。
 録音が始まった1900年頃から1940年頃までの歴史的な名演の録音は、今の演奏とはかなり違って聞こえます。
今のイギリス式の楽器を調整(ReRegulation ピアニストの弾き方・タッチに合わせて、メカニックの鍵盤からハンマーの動きまでの一連の動きかたを変えること)によってウィーン式と似た楽器にして、クラヴィコードの奏法で行っていたと思われます。

 領家幸がフライブルグで出会った「不思議なピアノ」も、こうようにしてイギリス式メカニックの楽器がウィーン式のような動きをするものでした。そして、2人の教授から教わった奏法は、クラヴィコードの奏法が、ウィーン式のピアノの奏法として引き継がれ、そしてイギリス式が市場を独占した後もイギリス式を調整法によってウィーン式に近づけることでなんとか生き延びてきたものだったのです。
 クラヴィコードに源流を置く演奏技術は、現代のそれとはまったく異なる手の構造を求めます。音の始まりではなく、音が伸びていることが、最も大事な点であるため、指は、鍵盤を押し下げる屈筋よりも、腕の重みを指先で支える伸筋がおもな役目を担うため、手のひらの下の空間の大きい“蜘蛛のような”手になります。「もうひとつのピアノ」は「もうひとつの表現」を引き出し、「もうひとつの表現」は「もうひとつの筋肉組織」を求めているのです。

領家幸の話に戻ります。サバテア教授について、その奏法と音楽を学ぼうとしていた領家幸に、厳しい試練が続きました。異なる奏法が求める独特の手の構造を作ることができず、右手の運動障害を起こし、修行を断念せざるを得なくなりました
 
そして、右手の治療に専念するべく日本に帰国している間に、サバティア教授は飛行機事故で死亡。
絶望的な状況の中で、領家幸は右手の運動障害が残ったまま、フライブルグ音楽大学への再入学を果たし、そこで手の中の筋肉構造のことを教えてくれる人に出会い、サバテア教授の“蜘蛛の手”の謎が解明されます。
彼女は、“滅びゆく古の演奏文化”を受け継ぐことを決意して、今度こそその奏法を作るべく、ピアノ演奏のテクニックを基礎から作り直すことに取り組みました
同大学で演奏家試験を終えた後、カールスルーエ音楽大学のマスター・クラスに入学し、厳しい訓練によって徐々に「蜘蛛の手」を身につけていったのです。
 
 そんな活動の中で、領家幸は、かつてフライブルグ大学の専属調律師だったグスタフ・ヒッペさんに出会い、現在のピアノを調整と調律の技術によって1930年頃の状態に戻すことができるのを知りました。ヒッペさんの仕事こそが、冒頭に記した1976年のコンクールの「不思議なピアノ」の因であり、1914年生まれで1930年ごろには調律師として仕事を始めていた、というヒッペさんにとっては、あの「不思議なピアノ」がピアノの普通の状態であったことを知ります。

 スタインウェイ社は公式には1853年の創業以来、一貫して同じ調整をしてきたと主張していますが、スタインウェイ・ハンブルグ社の技術部長だった人は、領家幸の執拗な質問に答えて「叙情的調整」と呼ぶ別の調整が存在したことを暗に認めています。

 フランシュ・セルヴァという著名なピアニストが1930年にバッハの曲を演奏した録音をラジオで聞いたことも領家幸の確信を深めることに役立ちました。
そのセルヴァが1919年に演奏方法について記した本が見つかり、「今これを書いても大抵のピアノ演奏家と教育家からは理解を得られず大きな反発を受けるが・・・」と記していることも知りました。
そして、理解を深めるためにフライブルグ音楽大学の精神科学部音楽学科に入り直し、楽器の変遷を調べ始めたのです。
そして、「もうひとつのピアノ」の歴史的な実像を徐々に理解していきました。
 
 暗闇を探るような活動は、やがて2001年頃から少しずつ実を結び始めます
フランクフルト、ベルリン、関西などでコンサートを開いてきましたが、
2004年から始めたベルリン・フィルハーモニー室内楽ホールでのコンサートの際に、RBB(ベルリン・ブランデンブルグ放送)の文化ラジオで「確かにまったく別のピアノです。」と紹介され、耳の肥えた観衆らにスタンディングオベーションを受けたのです

 音楽学者のバンドゥア博士は「これは1930年以降、ユダヤ人の迫害・追放とともにドイツから消えた奏法だ」と激励を送っています。
フライブルグ音楽大学用語辞典編纂室室長であった同博士は、領家幸のコンサートの推薦文に次のように記しています。
彼女の演奏芸術は、作品の正確な把握と、感銘深い音楽的かつ技術的にも裏付けられています。・・・領家幸のピアノ演奏の並外れた資質は、(より大きくなっていくコンサート会場の音響的な要求への反応の結果)近代から現代へのピアノの構造の進展・変化が、作品の適切な解釈にどのように影響を及ぼしているか、を彼女が熟知しているという事実の結果として現れてきます
現代のピアノの構造は確かに、音の大きい楽器になることには成功しましたが、同時に、例えばモーリッツ・ローゼンタールやアルトゥール・シュナーベル、ウラディミール・ホロヴィッツなどの録音で聞くことが出来る、ニュアンスに富み、歌うような、メトリック(韻律学)のしなやかさに富んだ演奏の伝統がさらに続けられるのを阻むことになりました
この演奏文化の伝統に目を向けることにより、領家幸にはほかに例を見ないほどの明瞭さ、しっかりした構成力とニュアンスの豊富さで作品を演奏解釈することが出来、・・・それぞれの作品が持つ内容の豊富さを彼女の演奏が、大多数の演奏解釈と違って、唯一のやり方で正当に表しえることになります


 18世紀に成立するヨーロッパ音楽は、バッハの頃から、その特徴である「拍」によって多声の構造を持つようになりました。
その拍の存在によって、“音楽の構造”というヨーロッパ古典音楽の特殊な状況が、響きとして表現されます。

ポリフォニーが弾け、その沢山の旋律が互いに絡んで“響きの構造体”を形づくる、この奏法を通してしかヨーロッパの音楽の本質には到達できない、と領家幸は考えています。


「もうひとつのピアノ」は「本来のピアノ」「本当のピアノ」でもあります


すでに滅びかかっているヨーロッパ古典音楽の主流だった演奏文化を現代に蘇らせる――日本人女性がたった一人で挑んでいる壮大な闘い
は、まだ道の途中です。

領家幸・もうひとつのピアノ・後援会(文責)
      
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