ブダペスト出発の朝光景
7月20日、ブダペストを発つと気温が一段と暑くなってきました。行きかうサイクリスト達も俄然少なくなりました。気温も連日35度を越すようになり、アスファルト上のかんかん照りの中の道路を走っていると、とても疲れます。
クール・バンダナに水を含ませ、頭を包むと気化熱で涼しいのですが、1時間もたつとカラカラに乾きます、1時間毎に水を含ませ、半時間ごとに日光で温められたお湯まがいのペットボトルの水で何とか暑さをしのぎましたが、体内のミネラル分が薄くなるのか、一向に喉の渇きは収まらず、昼間は水のがぶ飲み、夜はビールのがぶ飲みに脂っこい料理ですっかり胃腸を酷使しました。
ラッケヴェでは城を改造したホテルに泊まりました。敷地が広くゆったりしてとても美しいのですが、石造りでおまけに冷房施設がなく、夜中になると熱が室内に伝わってきて、暑くてとても寝苦しく何回もシャワーで体を冷やしたのです。水道水は,生ぬるく匂いがしており、つくづく日本の水道の有難みを感じました。
道中、もっぱらペットボトルの水を愛用しましたが、ドイツ、オーストリアでは500MLが約112円程(当時の換算)、ハンガリー、セルビアでは約40円、ルーマニアでは55円程で、貨幣価値というか物価の違いが判って大変興味深かったです。
城を改造したホテルの正門
ホテル中庭で
クロアチア入国の手前で一休み
クロアチア入国には、ドイツ以降初めてパスポートの提示を求められました。(当時EU未加盟の為)係官は明るく、「日本人か!どこからのサイクリング?どこまで?」と矢継ぎ早の質問。そしてそれをいちいち同僚に通訳。「クロアチァは観光資源も豊富だし料理もうまい。楽しんで!」と屈託のない笑顔で見送ってくれました。
しかし、初めての街オシエックに入ると、なんとなく暗い感じを受けるのはどんよりと曇った天気のせいばかりでもなさそうです。
建物の外壁は何かあばたの様に至る所穴が開いている。まさか銃弾の痕でもあるまいに、とホテルのフロントに聞いてみると。正しく1992年の独立戦争の時の弾痕と聞いてビックリしました。よくもまぁこんなにたくさんの弾が飛び交っていたものです。もし自分がこの中にいたらと思うとゾッと鳥肌がたち、一瞬言葉を失いました。
オシエックの街
建物に残る銃弾の痕
チトー大統領時代に保たれていた民族の融和が彼の亡き後、崩れ、民族間の争い、更に激しい独立戦争になったとのことでした。親戚同士が戦った人も大勢いて、40歳ぐらいの人で、戦闘によって心に異常をきたし、いまだ回復しない人もかなりの数とかでした。
激戦地ヴコバルでは砲撃されて壊れたままの給水塔が、今にも泣きだしそうな曇り空の中に佇んでいました。新しく建てられた近代的なホテルの隣はまだ破壊されたままの廃屋。「Vukovar was completely destroyed」(ヴコバルは徹底的に、破壊されつくしました。)とフロントの若い男性がため息交じりに語った声が忘れられません。
ヴコバル市内の建物
激戦地ヴコバルの戦闘の跡
ホテルの隣はまだ廃墟
破壊された給水塔
7月27日、イロクを出発するとすぐに国境。ドナウ河を渡ってセルビアに入りました。ノビサッドの街の銀行でユーロをディナールに両替。1€が104dn(ディナール)と円に近く、久しぶりに財布が膨らみました。両国の関係が良くないのを物語っているのか、使い残したクーナはその後セルビアの銀行では両替出来ませんでした。
セルビア入国国境にて
イロクのホテルの庭で
ノビサッドの手前の教会
ノビサッドの街角
首都ベオグラードに入る直前に猛烈な腹痛と下痢に襲われました。前の晩のホテルのとても油こいドナウの魚のシチューが、連日の暑さで弱っていた胃腸に来たらしい。ホテル・モスクワのトイレに駆け込んでようやく一息つきました。そこで頼んだ珈琲は130dn。一流ホテルのコーヒーが140円ほどで、物価はとても安そうです。
ここのレストランで食べたドナウの川魚が腹痛の原因に
ベオグラード市街を望む
支流流サヴァ川を渡ってベオグラードに入る
ベオグラードには3日滞在して、体調の回復に努めました。
最初は食事も全然受け付けず、コーヒーを一口飲んでも胃が悲鳴を上げました。体力の回復にと、無理してスープを飲んでも激しい腹痛が襲います。そんな症状では気力も萎えがちです。奈良の漢方の腹痛薬、陀羅尼助丸もとうとう底をついてしまいました。
日本大使館に電話して、この国の治安や交通事情を聴きました。「治安はそんなに悪くはないが、交通事故には気を付けて」と注意をされました。念のためにと言って、私の携帯番号とMさんという方の携帯番号を交換し、何かあればいつでも連絡するようにと言って下さいました。コメディアンの間寛平もドナウ川のルートをしばらく走ったとのことでした。又、車から充分認識できるようにと、警官や、道路工事人がよく着るオレンジ色に夜光塗料を塗ったチョッキを着て走るように勧められました。大使館の役人には珍しく、とても親切な方でした。
ベオグラードの繁華街
公園の出店
市内観光も最小限にして、公園のベンチや、カフェの椅子に座って道行く人をぼんやりと眺めつつ、体力の回復に努めました。只、これだけは見ておこうと思って、クネズ・ミローシュ通りへ行き、1999年のコソボ紛争の時に、NATO空軍が中国大使館の入っている建物を空爆、中国側に犠牲者も出て、外交問題に発展した曰く付きの建物を見に行きました。現場は当時のまま残されており、今も兵士が警備していましたが、テレビの映像とは違って、生々しく,すさまじい破壊力でした。
クロズミローシュ通りのNATO軍空爆の跡1
クロズミローシュ通りのNATO軍空爆の跡2
ドナウ川を遠くに見て
交通事故予防のチョッキを着て走る
8月1日、3日間の休養の後体調はまだ心もとないのですが、ここにとどまるわけにもいかず、ドロヴェタツルム・セヴェリンのホテルフローラに予約を入れて、娘に必要な物資をそこに送って貰う様手配し、今にも降りそうな天候の中、ホテルフローラを目指して出発しました。
スメデルボの手前の緩い下り坂を走っていると、「おーい、おーい」と呼び止められました。休憩を取っていた「地球と話す会」のサイクリングのメンバー30数名の方達でした。1993年、中国の西安を出発して毎年1か月ほどかけて、シルクロードを西にサイクリング、来年にはローマのヴァチカンまで行くという壮大な計画です。お若い?御婦人達もおられ、多士済々、楽しそうなグループでした。前後を白バイに護衛され赤信号はノンストップ、医者の乗ったバスが伴走し、体調不良の人はバスで移動とのこと。何とも羨ましい至れり尽くせりのサイクリングです。私のドナウの源流からの概略を話すと、「私たちは大名旅行ですね。」と感心しておられました。イワシの角煮やビスケットに加え、先程、桃の果樹園を見学したのでと、ネクタリンも頂き、親切な同胞のありがたさがつくづく身に滲みました。
頂いたイワシの角煮を昼に食べたところ、「五臓六腑に染みわたる」の例えどおり、とてもおいしく、体の隅々に慈養になっていくのが実感として判りました。「普段何気なしに食事はしているが、おいしく感じるものこそが本当に体の栄養になるのだ!」とこの時改めて認識したのでした。バスのセルビア人運転手に教えて貰った近道は、上り坂の苦しい道でしたが、その日の目的地、ポジャルバッチュには予定より大分早く到着しました。お腹の調子は漸く峠を越したようでした。
地球と話す会の皆さんと
8月2日、ポジャルバッチュのホテルでは、翌日の宿泊施設を探して予約してもらいました。セルビアに入国してから、スムーズに予約ができないことが多くなってきたので、セルビア語の離せない私に代わってフロントに頼んで、場所を指定して、ホテルや民宿を探して電話予約してもらうのです。日本での私なら、こんな厚かましい頼みなどとても出来ませんが・・・。地方の小さな町や村にはネット予約のできるホテルもなく、フロントでは英語が通じない場合も多くなってきました。この目論見は当たり、宿泊の予約の苦労からしばらくの間解放されたのでした。
ドプラの手前、ドナウを見下ろす要塞
ドナウを見下ろす要塞2
8月3日、ドブラで泊まった民宿の主人は先の内戦では戦車隊にいたそうです。いろいろその時のことを話してくれるのですが、肝心の言葉が全く通じません。左腕の戦車のマークの入れ墨が彼の苦労と心意気を物語っていました。
ドプラの民宿の家族と
8月5日、シップからドナウ河を渡ってルーマニアへ入国しました。
国境は貨物車で大混雑、二人の警官が車の交通整理をしていましたが、割り込む車あり、それに文句を言う人ありでとても騒々しく混乱していました。しばらく並んで待っていましたがラチあかないので、自転車の特権を生かして、並ぶ車の横をすり抜けてパスポートチェックを受けましたが、それでも国境通過に20分以上かかりました。
セルビア、ルーマニア国境
ルーマニア国境で通関を待つ貨物
ルーマニアに入ると、俄然、道路も広く、舗装もよくなり、走りやすくなりました。2007年のEU加盟後に新しく整備されたようです。古く狭い道路の拡幅、改良工事も随所で行われていました。まずはインフラの整備ということでしょうか。そして町々では、古くからのよろず屋に交じって、ドイツやフランス系のスーパーマーケットが新しくオープンしていました、この国のEU加盟で資本が入ってきていることを実感しました。
国境から10㌔程走ってベオグラードで予約したホテル、フローラに到着。建物は新しく設備も整っています。自宅からの待望の荷物は届いていました。胃腸薬に、スポーツドリンク粉末、修理用部品、輪行袋等。これで勇気百倍。此処で1日休みを取り、体力の回復に努めたのです。
ドロヴェタの手前のドナウ川
ドナウ川2
さて翌朝、洗面中に腰をひねった途端、腰に激痛が走りました。しまった、ギックリ腰です。ウィーン出発の朝に痛めた腰に疲れがたまっていたのでしょう。
これからの行程は坂が多く、又宿泊設備のある街の間隔も長く、1日150㌔以上も走らねばならない所もあって、40度を超す猛暑の中を、ギックリ腰の体力では万事休すです。かといって自転車を輪行袋に入れて担いで行く事など腰に負担がかかり、今の体調ではとても無理、勿論このまま立往生も出来ません。先に進むしかありませんが、「とんでもないことになった」と一瞬青ざめたのが、正直なところでした。
しばらくベッドで横になって、痛みが少し和らいだ後、そろりそろりと歩き、試に自転車に乗ってみたら何とか走れそうです。もう1泊して腰を休めて、進むことにしました。
「350キロ先のジュルジュウから左折しドナウ川を離れ、80㌔先の首都ブカレストまでたどり着こう。そこまで行けば鉄道があり、後は何とかなるだろう。」とベッドに体を横たえ、痛みをこらえながら思案したのでした。
ギックリ腰の直後の試し乗り
EU(欧州連合)
’91年12月に欧州理事会で再編された欧州統一機構。現在の 加盟国(①ヨーロッパにある②法の支配と人権を尊重する民主主義国家③市場経済が機能する国々で形成)は13年4月加盟のクロアチアを含め28か国で、域内に於ける4つの自由の原則(商品、人、サービス、資本の移動の自由)を保障する。
シェンゲン協定
加盟国 26か国は域内の国境検査は撤廃、人の移動は原則自由。
文、写真:商学部44年卒 夏目 剛