高山右近は天正元年1573年(21歳)から天正13年1585年(33歳)までの12年間高槻城主でした。その間に、キリシタン大名としてキリストの教えに基ずく生き方、町づくりを目指しました。
天正9年(1581年)頃には家臣以下2万5千人の領民の8割近くがキリシタンとなり、領内には20以上の教会が出来たといいます。
右近はまた、織田信長や豊臣秀吉の武将としても活躍しました。「本能寺の変」の後、秀吉と共に「山崎の合戦」や「賎ケ岳の合戦」を戦い武将としての有能さは秀吉ほか万人の認めるところとなりました。またこの頃から千利休の高弟としても活躍し、茶を介して深くつきあうようになった他の武将達の多くをキリシタンに改宗する手引きをしました。
「小牧長久手の合戦」後、高槻4万石から明石6万石に加増、高槻を去ることになりました。
その後キリシタン禁令で棄教をせまられるがこれを拒否し身を隠しますが、右近の才能を惜しむ前田利家に引き取られ顧問となり軍事や政治にも参加、家老扱いを受けます。
徳川家康の時代になり慶長19年(1614年)のキリシタン禁令で、宣教師、信者等の海外追放を命じる。右近は追放者の筆頭として挙げられ、家族と共に前だけを辞し長崎に集められジャンクに乗せられてマニラに追放される。マニラでは【偉大なるキリストの騎士】として市をあげた大歓迎を受けますが到着直後から体調を崩し、翌年の63歳で病没しました。全マニラ市による10間に渡る争議の執行をうけてマニラのイエスズ会墓地に葬られました。
高槻市とフィリッピンのマニラ市は姉妹都市となっています。