映画アマルフィに出演したガイドと行くアマルフィ・ツァー
2010年1月25日早朝。
私達4人を乗せたバスはローマから一路南下して世界最初のハイウェーである高速1号線をナポリに向け走り続けていた。
私たち4名とは、伊木さん、増田さん、ヒデちゃん、と私。
全員揃ってすこぶる元気。
怖いものナシ!
ツァーは初日からかなりの強行軍で、ついていけるか?と内心不安だった。
昨秋、アマルフィの街の景色を映画館で見て気に入った伊木さんが翌日、
「アマルフィのツァーを申し込まない?」と私を誘ってくれて即決した実にミーハーな旅である。
神戸に住むヒデちゃんは行き先も訊かないで参加OK。
増田さんは3人部屋では窮屈でしょうから・・・と加わってくれた。
いよいよ7つの世界遺産を訪れる10日間の旅の始まりです。
ローマからアマルフィへ
イタリア半島を南北に貫く背骨のようなアベニン山脈の頂には雪が残っている。
車窓からみえるアッピア街道にはイタリア特有の傘松の並木が一直線に続いている。
どこまでもオリーブ畑や放牧地がずっと広がっている。
初日の日本人男性ガイドは映画アマルフィにエキストラで出演したそうで
撮影場所なども詳しく説明してくれる。
ローマを出発して1時間以上たった頃、バスの左手に高い山が見えてきた。
山頂付近に修道院の建物がある。
モンテカッシーノ(カッシーノ山)だ。
ここの修道院は、第二次大戦時、見晴らしがよいのでドイツ軍が監視哨をおいた。
アメリカ軍部隊がここに多数投入され非常に激しい戦闘で多勢の戦死者を出した末、連合軍が勝利、
これがきっかけとなり戦況が連合軍に有利に変わった。
その時アメリカ兵として連れてこられたのは、ハワイ在住の日系人兵士達であった。
彼らの多くは自分達が手柄をたてれば、敵性国人としてハワイの収容所に入れられている親、子、妻
達が自由になれると期待してこのような遠隔の地で亡くなったと聞くといたたまれない気持ちになる。
ナポリが近づいた頃、右側にティレニア海が広がってきた。
ソレントとサレルノを結ぶ海岸がアマルフィ海岸。その中ほどにアマルフィがある。
ソレント半島をすぎる辺りからは、海岸から急峻ながけが垂直に立ち上がり、
斜面にへばりつくようにのびている山腹の細い道をバスは走っていく。
大型バスは通行できないため小型バス2台に乗り換え、がけ道を行く。
真下の海岸を覗きこむとめまいがしそうな急斜面にレモンとオリーブが見渡す限り植えられている。
この辺にはレモンから造られるリモンチェッロという甘く爽やかな地酒がある。
海岸の崖沿いには白壁の家や別荘が点在する。
アマルフィ海岸は風光明媚でソレント半島の向こうにカプリ島がみえる。
エメラルドの洞窟
小さな手漕ぎ船で洞窟内に。
外の光が差し込んで幻想的な美しさ。
エメラルドの洞窟 |
船頭さん |
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断崖絶壁に張り付いたようなくアマルフィの町並み
アマルフィの街は細い通りが迷路みたいに続いている。
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この辺りは夏にはリゾート地として賑わう所だ。昔はベネチア、ジェノバと並ぶ
海洋都市として貿易で繁栄したらしい。 |
映画「アマルフィ」に出演した?したガイドさんと
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当時を物語るような立派な大聖堂が街の入り口に聳え立っている。
街の目抜き通りのカフェで
名産のレモンを使ったシュークリームを私達4人は頼んだ。
お店の人はノンビリしていてなかなか注文の品が出てこない。
集合時間は迫ってくるし、ヤイヤイ騒いでやっと出たお皿をひったくるようにかき込んで走って
飛び出して行く私達を他のお客さんはあきれたようにながめていた。
これが時間の少ないパックツァーの辛いところだ。
シチリア島へ
シチリア島
長靴の形をしたイタリア半島のつま先で蹴飛ばされているような、三角形の島が地中海で一番大きい
シチリア島。ここの州都パレルモへは、ナポリ港からナイトクルージングで朝に入港した。
夜明け、いよいよシチリア島に上陸
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パレルモの街 |
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金1トンを使用したという モンレアーレのドゥオーモ |
古代ローマとハンニバル率いるカルタゴの間で争われたポエニ戦争の舞台になったところだ。
紀元前の遺跡がそのまま今に残る。パレルモ港も紀元前8世紀にはフェニキア人によって開かれていた。
シチリアはアラブ、ノルマン、スペインなどにも属していた時代があるので
いたるところにその名残を見る事が出来る。
アグリジェントの遺跡
島の南西丘陵にあるアグリジェントの神殿の谷には、紀元前6世紀頃に建立されたギリシャ神殿が20あまり立ち並んでいる。
地震で柱を残すだけの神殿もあるが、丘の頂きにあるコンコルデァ神殿はほぼ原型を残している。
遠くには地中海が広がり、神殿の谷は桜に似たピンクのアーモンドの花が満開で、樹齢1000年のオリーブは太い幹でその生涯を物語ってくれる。
カルタジローネは陶器の町
町の中心広場から教会へのサンタ・マリア・デルモンテ大階段は
イスラム時代(10世紀)のマジョルカ焼きのタイルで飾られている。
タイルの図柄は人や鳥や太陽などで、私達は一段ずつ違うタイル模様を楽しみながら142段を上った。
その間ヒデちゃんは、階段の両側に立ち並ぶ陶器店に入ってショッピングを楽しんでいた。
カルタジローネの町の中央広場で面白い光景にでくわした。
大勢の年配の男性がそこかしこに佇んでお喋りしている。
現地ガイドにきいたら朝夕散歩に来て顔見知りを見つけて話す社交場になっているとか。
これはギリシャ時代からつづく習慣らしい。
タオルミーナのタオル事件
タオルミーナの町はイオニア海に面した標高400メートルのタウロ山中腹の高地にある
町はずれの斜面を利用して作られたギリシャ劇場からみるパノラマは
今まで目にした中でも最高のロケーションだ。
ギリシャ劇場の客席からは下に野外ステージがみおろせる。
そのむこう遠くにイオニア海とシシリア最高峰・標高3000メートルのエトナ山(活火山)、
中程右手の山頂にはアラブ人が建てた砦や修道院が広がっている。
雨上がりの霧がよりいっそう神秘性を演出している。
現在でも夏シーズンにはこのステージでオペラやコンサートの催しがあるらしい。
この町のカステッロ(タオルミーナ城)からのパノラマも必見らしいが残念ながら雨だった。
中世の香りが残るウンベルト通りにあるブランド店で、ヒデちゃんは目利きと、値引き交渉の実力を発揮していた。
彼女に言葉の壁はない。
増田さんは観光よりヒデちゃんのショッピングテクニック見学のほうを楽しんでいた。
伊木さんと私は食品店でポルチーニ茸やアーモンドのお菓子を買った。
どれも美味しくて帰国後、もっとたくさん買ってくればよかったと悔やんだ。
シチリア島最後の日、ホテルから日の出を見る
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この辺りのサボテンには直径5センチ位のうすピンクの実がいっぱいなっている。
これで造ったお酒も味見した。
とろみがあって飲みやすかったが特別美味とは思えなかった。 |
移動中のバスの中で、現地ガイドがいない時には、
男性のツァーコンダクターが旅に関していろいろな説明をしてくれる。
ヨーロッパのホテルにはビデがあって日本のウオシュレットの基になったという話の後
「時々、間違えてビデの傍に掛かっているタオルで顔をふく人がおられます。
が、この
タオルはお尻用です」といったとたん、
私の隣に座っていた○○さんが「ギャ~!それってもっと早くに言ってくれんと、
もう顔に使ったわ~!」と叫んだ。
名前を明かすと私の命が危ないので、匿名にさせていただく。
シチリア島から本土へ
これで、いよいよシチリア島ともお別れ
シチリアから本土への連絡船で |
アルベロベッロのガイド犬
シチリアからイタリア本土に戻り「トゥルッリ」というトンガリ屋根に白い壁のキノコ型の可愛い家がズラッと並ぶアルベロベッロに着いた
夕食迄まだ時間があるので夜の町歩きをしようと皆で歩き始めた。
何処から現れたのか1匹の白い雑種犬が進行方向に向かって少し先を行っては立ち止まって
私達の追いつくのを待っている。
同じことを繰り返しながら気がつくといつのまにかモンティ地区に案内されていた。
すっかり暮れた空に細い月がかかっている。
おあつらえむきに猫までトンガリ屋根に登って上弦の月をバックにポーズをとってくれる。
イタリアではどの犬もよくしつけられ、可愛がられているので人懐こくて気持ちがなごむ。
動物達と、きのこみたいなトゥルッリの建物、まるでおとぎの国に迷い込んだ気分になった。
洞窟住宅群マテーラ
岩山をくりぬいて造られた洞窟住宅群「サッシ」が数多く並んでいる。サッシの歴史は古く有史以前
すでにひとが住んでいたそうだ。8世紀頃には洞窟教会も建設されていた。
住宅内に入り奥にすすむと、寝室や居間、キッチンがあり下には家畜の部屋もある。家畜の糞を醗酵
させその熱で暖をとっていたらしい。一番奥はワインの貯蔵庫になっている。
1952年政府命令でサッシは不衛生との理由から15000人が強制移住させられた、
最近インフラ整備をして又人が住み始めている。私達が昼食をとったのも洞窟レストンだった。
壁をさわったら石というより、砂岩の崩れ易いものだった。きっと堀削しやすかったのだろう。
ポンペイの遺跡ポンペイもローマも雨の中、傘をさしながらの観光だった。
ローマの休日
ツアーの過酷なスケジュールから解放され、
やっと待望の自由行動だ!
季節はちょうど冬のバーゲン。
「いざ、お買い物に出発!」と喜んだのもつかの間、なんと今日は日曜日。
カトリックの国イタリアでは、休息日でほとんどのお店は休業です。
あいているのは、観光客相手のお土産物屋さんかレストランくらい。
これがほんまの「ローマの休日や!」
マンジャーレ!(食べる) カンターレ!(歌う) アモーレ!(愛し合う)
陽気なイタリア人。
しかし、有史以来の度重なる戦争と厳しい自然との闘いに明け暮れた南イタリアの
過酷な歴史を垣間見た旅でもあった。
桁違いに旧い遺跡や南イタリアののんびりした風景に出会えた旅だった。
期待していた青い地中海ではなくどんより灰色の海だったのが残念だったが。
帰国してみた関空の海が一番青かった。