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2021年2月5日
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コロナ後の私のライフワーク再開に備えて |
淺井 雅幸(S42経済学部卒) |
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説明中の筆者 |
私にとって一番の変化は、27年間ほぼ毎月仲間の方達と国宝巡りを続けていたのが昨年2月以来行けなくなったことです。毎回行先やコース、昼食の場所、最後の「反省会」と称する飲み会の設定と解説文の作成など、すべて私の独断と偏見?で決定して続けてきました。
これを始めたのは、学生時代の4年間、古美術研究会に所属していたからです。当時研究会の顧問をして頂いていたのは美学科の源豊宗教授でした。先生は京大教授の時代からすでに我国古美術研究界の第一人者でした。最初に行った4月の法隆寺・中宮寺見学会で60歳代後半の先生が、全ての建物や仏像を、約4時間休みなく次々に説明されました。その情熱には圧倒されました。関学を退任された後も、お住いの京都で、毎回自作のレジュメを出席の皆さんに配られ100歳を過ぎてなお講演を続けておられました。
レベルは遠くはるかに及びませんが、古美術の良さと文化財の重要性を一人でも多くの人に理解して貰いたくて「国宝を訪ねる会」を続けてきました。昨年1月の第183回で一旦ストップしましたが、以前から会員の皆さんには、200回まで続けることを約束しており、コロナ後あと2年ほどは続けなければなりません。その為、脚力低下と認知症がこれ以上進まぬように、徒歩で近辺の史跡巡りをしております。その中で見所を感じたのは上土室のハニワ工場公園です。約3万uの緩やかな傾斜地に、ハニワを焼いた登り窯風の窯が、下から見て右端の第1号窯から18号窯まで並んでいて、1号窯と2号窯は、復元されて茅葺の屋根が架けてあります。最終に使用された最大級の18号窯はドーム状の建物で覆い、ハニワ工場館として発掘当時のまま展示してあります(10時〜17時、入館自由、年末年始のみ休館、072−695-8274)ここではA.D.530年頃今城塚古墳のハニワが焼かれました。斜面の頂上部分には3棟ある工房のうち2棟が復元され、各々高さ約7m、一辺約11mの大きな建物で20名程の工人が働いていたとされています。多種類のハニワも復元されて並べられています。ここではA.D.450年頃に焼かれた太田茶臼山古墳はじめ近隣の多数の古墳(三島地区全域で古墳約500基あり)のハニワが作られました。
もうひとつ見所があるのは、市公園墓地の中にある「安満宮山古墳」で、展望の良い「悠久の丘」の下りた所にあり、車道に面して大きな赤い標柱が立っています。(入場自由)古墳の上には中が見えるように足元の高さにドーム状のガラスが被せてあり、発掘当時のままに鉄剣や5枚の銅鏡などの副葬品の状況が見えます。このうち1枚に魏の年号青龍三年(A.D.235年)とあることから、『魏志倭人伝』にある卑弥呼が魏の王から貰った100枚のうちである可能性が高く、倭の使節が行く4年前の制作で時期的にも合う所から、被葬者は高槻近辺の首長で倭の中でも有力者と考えられます。これらの銅鏡も古代技法で復元されて、すぐ手前の解説板の周囲に嵌め込まれ目の前で見られます。この二か所とも解説のパンフレットがあります。
その他芥川山城、嶋上郡衙跡、今城塚古代歴史館、芥川宿一里塚など家から往復4km〜8kmの範囲に見所が多数あります。また3日に1度は太閤道を歩いています。
いま一つは解説文作成のためテレビから録り溜めた古美術関係の多くのDISKを項目別に再編成中です。
コロナ禍が収まった後、私のライフワークの「国宝を訪ねる会」の再開に備えて、今出来ることを考えながらの毎日です。
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以上 |
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前列左から3人目筆者、左端大阪支部長富田順治氏、中列右端高槻支部吉田逸史氏 |
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