2年ぶりの欧州訪問
鎌田 潔(S53法卒)
出発まで

37年も暮らしていたドイツから帰国して、ほぼ2年ぶりにドイツ、フランス、ベルギーの3カ国を2週間、駆け足で訪問する機会を得た。パスポートの期限が切れるため、保有しているドイツの永久滞在許可証の更新が必要となり、この手続きは日本のドイツ大使館では出来ないので、帰国前に住んでいたデユッセルドルフ市の外人局に出頭することになった。自分にとっては老後をドイツで、という可能性もまだゼロではないので、高い旅費を払っても、永久滞在許可を今はまだ維持しておきたいと思った次第である。

弁護士を通して役所の予約を取ろうとしたが、いつになったら予約が取れるのか全く予測がつかないという連絡を受けた。ドイツの2022年の難民受入れ数は高槻市の人口の4倍に当たる126万人に登り(注: 国連による報告によれば210万人で、トルコ、イラン、コロンビアに次いで世界第4位)、今年はウクライナからの難民増で、昨年を更に上回る勢いで、ドイツ全国の市区町村は受入れ業務に翻弄されているからである。ところが、連絡のあった翌日の5月9日に、5月31日に予約が取れたとのメールが入り、それから突貫でパスポートの更新、滞在スケジュールの作成、航空券とホテルの予約、滞在中に会いたい人への打診等を慌ただしく済ませて
5月21日(日)に関空から出発した。

以前のようにロシア領空を飛行出来ない為、関空を出発したエールフランス機は、モンゴル、カザフスタン、カスピ海、黒海南部の上空を通過し、出発からパリを経てデユッセルドルフのホテルへ到着したのは、関空出発から19時間後であった。往復とも機内は主に欧州からの観光客で満席だった。日本はいつのまにか、高い航空券代を払ったとしても、ホテル代、飲食費の安い観光地となったようだ。 


ドイツーデユッセルドルフ

地方分権の国

デユッセルドルフはドイツを去るまでの5年間を過ごした人口60万人の街で、ドイツで日本人の人口が一番多く、たくさんの日系企業が進出している。街の真ん中をライン河が流れ、私も当時は毎日車で橋を渡っていた。ライン河と河沿いに広がるアルトシュタット(旧市街)が街のシンボルにはなっているものの、全体として街並みが美しい場所とは言えない。


かつて1960年代に日系企業のドイツ進出が始まった当初は、大きな港がある北部のハンブルクに進出する企業が多かったが、やがて中心は西部のデユッセルドルフへ移る。何故この街が日本企業の中心になったのか、かつてドイツ経済を支えた炭鉱や鉄鋼業の中心であるルール工業地帯のすぐそばに位置し、フランスやオランダ
、ベルギーにも近い欧州の真ん中にあることが、その理由と言われる。確かに北部のハンブルクに対し、デユッセルドルフからならフランス、ベネルックス、英国へのアクセスははるかに容易である。

特に大きな観光名所があるわけではないこの街で、私が隠れた名所だと常々感じているのは、アルトシュタットの外れにある1773年創立のデユッセルドルフ芸術アカデミーだ。今年創立250周年を迎えたこの国立芸術大学は堂々としたネオルネッサンス様式の校舎をもち、驚くほど多様で才能あふれる芸術家がここで学び、ここで教えて来た。世界的に活躍しているドイツ人芸術家の経歴を見ると、かなりの確率でこの学校の卒業生であり、ここは永年にわたって美の創出の確固たる現場となって来た。
毎年2月には卒業制作展が開催され、画商や美術関係者だけではなく、多くの市民で賑わう。

こういう学校が、ベルリン、ハンブルク、ミュンヘンといった大都市ではなく、デユッセルドルフに存在する点も、中央集権ではなく、地方分権の連邦国家ドイツの典型的な姿ではないだろうか。ベルリンは政治の中心ではあるが、経済や文化の
中心ではない。デユッセルドルフには、大きなクラシックのコンサートホールが1つ、歌劇場が1つ、大規模な美術館が3つ、飛行場が1つある。ドイツは日本とほぼ同じ面積を有するが、日本が47都道府県に対し、ドイツは連邦国家として16州をもつ。
最大の人口を有するのはデユッセルドルフが州都である西部のノルトライン・ヴェストファーレン州で、1800万人、次いでミュンヘンが州都である南部のバイエルン州で、1340万人、ベルリンは特別市として州と同格の権利をもつが、わずか340万人の人口しかもたない。東西ドイツの統一に伴い、1991年に首都がベルリンへ戻る前,西ドイツの首都であったボンがわずか35万人にも満たない人口であったことを見ても、中央集権を尊ばない国民の意図が感じられる。

移民の国ドイツ

ドイツの人口8400万人の内、約3割が「移民としての背景を持つ人たち」と言われ、その中で最大のグループは約300万人のトルコ系住民である。タクシー運転手や街のあちこちにあるキオスクの店主の多くがトルコ系住民であり、彼らの存在はわざわざ移民という言葉を使わなくても、もうドイツの日常風景となっている。何故ならドイツの戦後復興の一翼を担う単純労働者として、すでに1960年代初めからトルコ人の移民が始まっているからだ。トルコ系住民のいないドイツは想像出来ない位だ。私にもトルコ人の知人がいるし、今香港で仕事をしている息子に至っては、ドイツにいる殆どの友人がトルコ人だ。


デユッセルドルフ滞在2日目の朝、散歩中に、トルコのパン屋を発見。
面白そうなので、入って見ると、朝食としてトルコの卵料理を作ってくれると言うので、特産のピリ辛ソーセージと刻んだパプリカ、トマトをスクランブルエッグと混ぜたようなものを注文、その日から帰国までデユッセルドルフにいる際は毎朝ここに通った。パンもドイツパンに加え、これまで食べた経験がなかった美味しいトルコパンも数種類あり、いつもにっこり笑って暖かく迎えてくれる居心地のいい
家族経営のパン屋だった。パン屋一家はトルコ東部のトゥンジェリという山岳地帯の出身とのことで、地図で確認すると如何にトルコが広いかがよく分かる。

ヴィラ ヒューゲル訪問

デユッセルドルフ滞在中のある土曜日、車で50分の距離にある、Villa Hügel(ヴィラ・ヒューゲル)を訪問した。ここは、鉄鋼財閥クルップ家の開祖とも言うべきアルフレート・クルップが、1873年に完成させた邸宅である。28ヘクタールという広大な敷地に建つお城のような邸宅の本館には、コンサートホール、図書室、ダンスホールに加え、執務室も設置されており、別館ではクルップ家の歴史を語る写真や品物が展示されている。
邸宅もさることながら、私は芝生と木々に覆われた起伏に富んだ庭が気に入っており、今回もしばし散策をした。デユッセルドルフからVilla Hügelのあるエッセン市に行く途中にはルール工業地帯の名前の由来であるルール川が流れている。この川の流域にかつて炭鉱の町が次々と広がり、多くの炭鉱労働者が毎日真っ黒になって働いていた。今は昔の話である。
炭鉱の町は労働者の町であり、美しくはないが、ドイツの経済を支えて来た。Villa Hügelのあるエッセン市にだって、炭鉱はあったのだが、今は大きな炭鉱博物館になっている。富豪のお城のような邸宅と炭鉱の町が混在するこの地域のことが私は気に入っている。


フランス-パリの魅力

水原紫苑さんという歌人がいる。私より3歳下の水原さんは、歌人に与えられるあらゆる賞を獲得されている歌人界では有名な方らしい。大学でフランス文学を専攻され、修士課程まで進まれたが、その後、歌人となられた。若い頃にパリを訪問した後、30年以上訪問の機会がなかったそうだが、昨年パリを訪問され、その時の旅行記「巴里うたものがたり」を出版されている。

今回の欧州旅行の直前に私はこの旅行記を入手し、水原さんのツイッターのフォロワーにもなった。実は水原さんは今年も欧州を訪問され、私がパリ入りする直前に一旦英国へ向けて出発されていた。

私は、水原さんがお気に入りと旅行記やツイッターで語っている、あるレストランを、パリ到着後すぐに訪問した。ホテルからレストランまでの徒歩13分の道中には、フランスの多くの偉人たちが眠る巨大なパンテオン(万神殿)があり、更に東へ進むと、アンリ4世高校の校舎が見える。このアンリ4世高校の卒業生のリストを見ると、政治家ではマクロン大統領以外目立った人物はいないものの、文人や哲学者の欄はフランスの知の代表者のオンパレードである。朝登校してくるまだ少しあどけなさが残る学生たちを眺めながら、彼らの中からやがて知の巨人が誕生するのだろうか?と想像しながらしばらく歩くとお目当てのレストランに到着した。

早速 鮭の燻製の前菜とハラミ肉のステーキを注文、ハラミ肉は柔らかくて美味かった。ごく普通のレストランだが、スタッフは全員きびきびとしており、私を給仕してくれた金髪の女将さんがチャーミングで、笑顔がとても素敵だったので、ツイッターで水原さんに、報告したところ、パリへ戻って来た水原さんから、「マダムに伝えたら喜んでました」というメッセージが返って来た。


パリには大小様々な魅力的な公園があるが、私の一押しは、南部にあるモンスーリ公園だ。広大な起伏のある敷地に大きな池がある。池の一方は芝生が丘のような斜面を作っており、陽だまりで人々が座ったり、寝転んだりしている。 もう一方はベンチが並んだ散歩道となっており、談笑したり、読書したりしている人々がいる。パリには北部のビュット・ショーモン公園のように、もっと凝った造りの公園もあるが、私はこの公園の何げなさが気に入っている。観光客の多いパリではあるが、少し中心部から離れると地元の人たちの世界となる。昼下がりのひと時、公園のベンチや芝生に腰かけていると穏やかな気分になる。欧州の公園は市民の憩いの場所として緑がいっぱいで、手入れも行き届いてる。こんな街に住めたなら、夜10時まで外が明るい夏場には、きっと芝生の上で、池を見ながら語り合ったり、ベンチに座って次のバカンスの目的地を考えたりしていることだろう。私は後ろ髪を引かれる思いで、モンスーリ公園をあとにした。


ドイツーハンブルクの回想

ハンブルグの魅力

ハンブルクはベルリンに次ぐドイツ第二の都市で、エルベ河沿いの河川港として有名だ。ハンザ同盟の中核都市として栄え、富を築いた。港街と聞くと、猥雑なイメージを想像される方も多いと思うが、ハンブルクはドイツの大都市の中では、ミュンヘンと並んで最も美しく、水と緑に溢れた街であるということは、ドイツ人の間でも異論のないところである。

市の中心部にはアルスター湖という大きな湖があり、季節を問わず、その周りをジョギングする人たちが絶えない。夏には、湖上に白い帆をはばたかせるたくさんのヨットが浮かび、観光船ツアーの中には湖から延びる運河巡りをするコースもある。地球温暖化の影響が顕著でなかった20年ほど前までは、稀にアルスター湖が冬場に凍結し、湖上を歩ける状態となり、屋台が出現することもあった。 私自身も2度湖上を歩いた経験がある。


ハンザ同盟都市の商人の富を感じる富裕な街であるが、庶民層の文化もはっきり息づいている。ハンブルクは伝統的に社会民主党(SPD)が強い街で、SPDの有名政治家の中で、ハンブルクと縁のある人としては、ヘルムート・シュミット元首相や現在の首相であるオラフ・ショルツ氏が挙げられる。

シュミット氏はハンブルク生まれ、ハンブルク市の内相を経て、国会へ進出、96歳で亡くなるまでハンブルクの質素な家に住んでいた。

ショルツ氏はハンブルク市長を経験。私はハンブルク在住時に、ショルツ市長名の手紙を受け取り、そこには、あなたは長くドイツで暮らしているが、ドイツ国籍を取得する意思はないか? もしそうなら、ハンブルク市としては国籍取得をサポートする用意がある、と記載されていた。それを読んだ時、外国人を受け入れる懐の深さに驚いた。

ザンクト・ゲオルグの思い出

さて、今回の訪問では以前10年間住んでいた地域を散策し、もう一度目に焼き付けておきたいと思った。

私は通算20年間、ハンブルクで過ごしたが、その内、10年間暮らしたのがザンクト・ゲオルグ地区だ。ハンブルク中央駅から歩いて5分、前述のアルスター湖からも徒歩5分の場所である。アルスター湖から至近距離とはいえ、もともとは庶民の街だった。

私が住んでいたアパートの斜め向かいはドイツ最古のゲイ・レズカフェ(普通の人も問題なく入れ、ケーキが美味しい)があり、今や人気観光スポットになっているようだし、アパートの1階には大人気のパブがある。

ここのオーナーは韓国人で、かつてアパートの住人全員を2度にわたって超高級レストランに招待してくれた。また、彼はその当時の住人に、階下のパブで使える無期限の半額割引カードをくれた。パブの騒音(実際には全く気にならなかった)を心配した彼が住民への配慮をしてくれたわけだが、その心意気がうれしく、私はこの半額割引カードを今でも大切に保管している。

私の住んでいた通りは、この20年ほどで、人気スポットになってしまい、アパートや店舗の家賃が相当上昇し、昔から住んでいた人の一部は引越しを余儀なくされた。それでも昔から変わらない個性的な店舗が今日もまだ残っており、この地域の住民の中にはいい意味での村意識、仲間意識が存在しているように思う。 

住んでいたのは、築100年を超えるエレベーターのない古い建物の4階だった。
4階には、一時期そこから徒歩7分の距離にある有名な「ドイツ劇団」所属の若手
劇団男優と、その彼女である金髪テレビ女優も住んでいた。彼女は以前ベルリンを舞台にした連続テレビドラマに出演していたので、私は知っていた。我が家のキッチンからは彼らのキッチンが窓越しに見えたのだが、ある日ふと彼らのキッチンに目をやると、金髪女優がフライパンを使って料理をしている姿が見えた。その後、テレビをつけると、当時人気があった警察物のドラマに女性警官の役で出演している姿が映り、不思議な偶然に驚いたことも今や楽しい思い出である。

今回再びかつての住まいの付近を歩いてみて、個人的には色々波乱の時代ではあったが、ここに住めてよかったと心から感じた。



旅を終えて

今回の旅の主目的であった永久滞在許可の更新も無事終了し、次回パスポートが失効する2033年迄は一安心となった。10年後の自分の年齢を考えると、その頃には、日本で余生を送っているか、再び欧州に戻っているか、決着はついているはずだ。さて、どんな結末が待っているのであろうか? また難民問題、ロシアのウクライナ侵攻で揺れる欧州は、その頃、どう変わっているだろうか?

以上
ホームに戻る     交流広場に戻る     このページトップへ