1967年、Seia・ Portugal
Ajudarの心

商学部44年卒 夏目剛

遥か昔の事、私は関学・商学部を1年休学して、欧州サイクリングに出かけました。海外旅行が自由化されて僅か3年後のことです。

当時、欧州に安く行けることで学生に人気のあったソ連経由でウィーンへ出て、そこから憧れのリスボンまでの4,700キロをサイクリングしたのでした。

旅費は持ち出し外貨の制限500ドルからソ連通過の旅で70ドルを引かれ、懐に残ったのは430ドル。

一日3ドルの予算、当時のレートで1,080円の文字通りの貧乏旅行でした。
スペイン、ロドリーゴ教会前

丁度、終戦の日の8月15日、ウィーンのユースホステルを、仲良くなった皆に送られて、リスボンに向けて、単独サイクリングを開始したのでした。

ウイーン南駅に到着の朝 YHで仲良くなった仲間たち


オーストリア、ガストハウス出発の朝 ザルツブルグMさん家族と共に

夏の間、オーストリア、ドイツでは若者達との交流や、親切な人々にも助けられて、とても楽しい旅を続けることが出来ましたが、秋も深まった10月30日にパリを出発すると俄然様子が変わりました。

それは、季節の変わり目の長雨の中、フランスの田舎道を、たった一人黙々と走る孤独な旅でした。

右側通行の路肩を走っていると、車が猛スピードで、走っている自転車など全くお構いなしに、強烈な水しぶきをかけて追い越していく度に頭から水しぶきを浴びてびしょぬれ。
夕方、散々な目に遭って、這う這うの体でたどり着いたホテルでも、そんな筈はないのに、「部屋はいっぱい」とすげなく断られ、情ない思いで仕方なく、真っ暗になった雨の中を次の街目指して重い足取りで、10数キロ走ったことも再三でした。

スペイン入国後、サンセバスチャンから、ピレネー山脈を越してブルゴス、バリャドリード、サラマンカとイベリア半島を斜めに横切って行くサイクリングは、村々で「チノ!チノ!」と好奇の眼で見られ、又イベリア台地の11月後半の朝夕の冷えはとても厳しく、ハンドルを握る手は冷たい風を受けかじかんで、地図を頼りの、緊張の連続の、心身ともにとてもハードな旅でした。

ハイデルベルグ、ネッカー川の畔で


村の悪ガキ達 サラマンカの町はずれの踏切番の家族と

そんな苦難な旅の後、ポルトガルに入国したのは、秋も深まった11月23日、グアルダの街でした。
翌日はセイア迄の予定ですが、途中、標高1,993mのエストレラ山脈の峠を越さねばなりません。
雨こそ昼には上がりましたが、山又山の登坂の連続で、とうとうセイアの手前8キロのところでダウンしてしまいました。
「この辺りに宿泊できるところはありませんか?」とカフェの前にいた人に尋ねたのでした。
その中の1人が、「ここにはないが、セイアには安く泊まれる下宿屋がある。我々もそこに帰るから、案内してあげよう。」と連れて行ってくれることになりました。
でも疲れた体に鞭打って、山道を走るジープを追いかけるのですから、8キロと言えども、それはそれはとても大変でした。へとへとになって、何とかセイアにたどり着いたら、彼は町の入口で私の到着を待っていてくれました。

彼の名はフランシスコ。グアルダ、フィオス間の保線管理をしているC.T.T(電電公社)の職員でした。
明るくて快活な、堂々とした体格の好男子でした。
その晩は彼と同僚アルマンドや仲間を交えての食事に招待され、其の後、カフェやバールにも連れて行ってくれるなどとても歓待してくれました。
明治時代に日本にやって来た、ポルトガル人モラエスのことも話題に上がりました。
私はポルトガル人が種子島に伝えた鉄砲で、それまでの戦がガラッと変わって、鉄砲が日本統一に大きな役割を果たしたこと。カッパやボーロ、カステラ等日本で日常に使われている言葉がポルトガル語から来ていることや、憧れのポルトガルを尋ねて、ウィーンから自転車でリスボン迄行くことなど、旅の詳細を彼らに片言のポルトガル語で語ったのでした。

その日の日記には、フランスやスペインでの道中と違って、彼らが私を裏表なく、対等に仲間として歓待してくれて、とても嬉しかったことが記されています。
翌朝、フランシスコにお礼と別れの挨拶をしようと思って、いつもより早く起きたのですが、彼らは既に出発していた後でした。
仕方なく、絵葉書にお礼を書いて、さて出発の段になって、宿泊費は彼が既に支払っていてくれていました。
そんなことはおくびにも出さず何ら見返りを期待しない彼の行いにとても感激したのでした。

街を出て、コインブラに向けて登坂を上っていくと、運よくフランシスコがチーフと一緒にジープで向かってくるのに出会いました。
「金はとらなかっただろうな?」「昨晩はよく眠れたか?」「何か問題はなかったか?」、僕は心から彼にお礼を言いました。
そして「なぜ、見ず知らずの僕にこんなに親切にしてくれるの?」と尋ねたのでした。
「困ってる人を助ける(ajudar,原形)のは私にとっては当たり前のことなのだ。」と彼は答えてくれました。
もう前後の文章は忘れてしまったけれど、その時彼が言ったajudar(原形)という単語は今も深く私の心に残っています。

思えば、昨晩泊まった部屋には小さな男の子の写真が卓上にありました。
彼は当時の僕よりも10才も年上、男の子が一人いてもうすぐ二人目が出来るとか。
後から思えば、自分の部屋を僕に提供して自分は同僚のアルマンドの部屋で寝たのではないかとハタと思い当たったのでした。
SeiaそしてAjudar、この二つの言葉は、フランシスコの笑顔と共に私の心に深く刻まれ、卒業後の私の人生にとても大きな影響を与えてくれたと思っています。

セイア、フランシスコと共に

(大阪日本ポルトガル協会25周年記念会報の掲載文に一部加筆)
 
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